71歳の起業家は独自の調理器を武器にステーキ世界戦略を構築:ペッパーフードサービス一瀬邦夫社長(1)

投稿日2013/12/06

71歳の起業家は独自の調理器を武器にステーキ世界戦略を構築:ペッパーフードサービス一瀬邦夫社長(1)

 ペッパーフードサービスは低価格ステーキレストランのフランチャイズチェーン(FC)「ペッパーランチ」等を展開している企業です。国内128店舗、海外では台湾、中国、シンガポールなど12ヶ国で155店舗(2013年10月末)が加盟しています。世界市場でこれだけ多くの出店を果たしている外食企業は稀です。国内店舗はカウンター店が中心で、お客自身がステーキをテーブルの鉄板で焼き、1,000円以下の安い価格で食べることができます。ボリューム豊富で、若い男性客を中心に賑わっています。
 社長の一瀬邦夫さんは静岡市生まれで 幼少期を東京の下町で過ごしました。高校卒業と同時に、東京都港区赤坂の旧「山王ホテル」でコック修行をした後、27歳で独立創業し、墨田区向島に「キッチンくに」というレストランを設立しました。
 一瀬さんは現在71歳。51歳で「ペッパーランチ」のFC事業を始め、57歳で上場を決意し、64歳で上場を果たしたのが、なんとも凄いところです。彼は、子会社上場を除いた創業社長の「上場最年長記録」を保持しています。レストランの創業は若い時のことですが、シニアになってもチャンレンジを続けているところが尊敬に値します。
 12月6日、新しい業態にチャレンジしました。『いきなり!ステーキ銀座4丁目店』をオープンしたのです。これは高級ステーキを赤坂店の半額で楽しめる立ち食い店です。2013年10月、墨田区の本社に一瀬さんを訪ねました。


商売の原点は「いつもニコニコ、フレンドリーな店」

尾崎: 一瀬さんにとって、今年一番の嬉しいニュースは何ですか?

一瀬: 「エイチ・アイ・エス」の澤田会長からハウステンボスの飲食部顧問になるよう依頼されたことです。同時に、澤田さんに当社の海外戦略担当顧問をお願いしました。澤田さんは経営者として尊敬する方ですから、とても嬉しいことでした。彼の依頼で当社の商品が認められたと感じました。

尾崎: 一瀬さんはシェフとして修業された後、20代で「キッチンくに」というステーキ店を作られました。当時(1970年)の生活水準だとステーキはまだ贅沢品で、あまりお客さんが来なかったそうですね。そこで、どのように集客されたのですか?

一瀬: 私は高校を出てホテルのレストランで修業しましたが、20歳代になると母親から「いつまでも仕事で人に使われていたら、埒があかないじゃないか」と背中をおされて、独立しました。母親が用意してくらた三坪の小さい店は、今、プロの目から見ると、とんでもない立地でしたが、当時の私は立地のことなど何も分からず、とにかく開店にこぎつけるだけ精一杯でした。お金が無かったので、以前勤めていたレストランから、椅子、冷蔵庫など中古品一式を貰って来て、ペンキ塗り直して店をオープンしました。
 店は当時の業平橋駅から200mほどの距離にありました。当時は人通りが少なく、同業他社が出店しないような条件が悪い場所です。そこで、この地域の人が何を欲しがっているか真剣に考えたわけです。当時はファミレスのない時代で、とんかつ、エビフライ、ハンバーグなどの洋食は「高嶺の花」でした。そういった洋食を低価格で提供し、「皆様の台所」をコンセプトにしたのです。店内は12席しかなかったので、お客さんがちょっと来ると満員になる。お客さんが4~5人入っていると、ドアを開けただけで帰る人も多い。これじゃ商売にならないので、スペースの制約がない出前に取り組みました。
 当時日本の所得水準は上がっており、私はホテルでずっとステーキを焼いていたので、2年ほど経てばステーキの時代が来るという確信がありました。メニューの名称は「ステーキ」にするか、当時普通に使われていた「ビフテキ」にするか、ずっと考えた末に、「ステーキのほうがこれからの時代には良いだろう」と決めたのです。

尾崎: ビフテキという言葉は今では死語になりましたが、当時はステーキよりも広く使われていましたね。

一瀬: ビフテキよりもステーキの方が新しいライフスタイルを象徴していると思いました。

尾崎: 開店当初に出前をされたとのことですが、当時、洋食の出前は珍しかったでしょう?

一瀬: そうです。当時の出前はラーメンかお寿司くらいでした。

尾崎: 宣伝はクチコミのみですか?

一瀬: ほとんど口コミでした。チラシなどより口コミの方が効果的でした。また、お客さんが来られる度に、絶対この人たちはもう一回来店するという予感がしましたよ。何故かというと、私と家内は感じが良いんです(笑)。
 いつも「ニコニコで、フレンドリーな店」。これが私の商売の原点です。

尾崎: 下町の料理屋は愛想が良いところばかりじゃないですよね。気難しい親父が料理して、客がお世辞を言うような店は、私は苦手です。料理が美味しいかどうかは二の次になります。

一瀬: たしかに、愛想ない店が多いですね。
 大事なのは、本当に愛情込めて作ったおいしい料理であるかどうかです。当時、私はアルバイトに料理を任せることはしませんでした。最初に開店して約9年後に4階建てのビルを作りましたが、そこに移ってもずっと、お客さんの目を見て、口元に運ばれる料理が美味しく食べられているか気にしていました。それぐらい、一品一品料理と食材にこだわりました。一度来た人にもう一回来てもらうための努力を惜しまなかったことが、繁盛の基だったと思います。
 次第にお店が繁盛しても、毎年辞めたいという従業員が続きました。一瀬さんはこのことに悩み、彼等に新しい店舗を任せてやる気を引き出すことにしました。銀行から借金をして多店舗化したのですが、従業員が喜んで働いているというふうには見えませんでした。むしろ、借金が重荷となり、経営的なピンチに陥ったのです。腕の良いシェフが独立して多店舗化した途端に経営がおかしくなる典型例といえます。追いつめられた一瀬さんは意外な行動に出ました。

最初は社員の顔色を窺ってばかりの「甘い社長」だった



一瀬: 最初は家内と二人でお店を始めて、アルバイトを一人二人と社員にしました。ところが、有能な社員ほど一年も経たない内に「お話があるんですけども…実は辞めます」と言って来るわけです。「またか…」と同じ会話を何回も経験するうちに、社員は「この会社(まぁ、当時は会社組織にもなっていませんでしたが)にいて将来大丈夫だろうか」と悩んでいることが分かりました。また、その悩みは当然のことだったと思います。そこで、将来従業員が店長になれるよう複数店展開することを決意したのです。

尾崎: 若い頃の一瀬さんと一緒で、優秀な料理人ほどいつまでも人に使われたくないと思うでしょうから、独立の機会は大切です。

一瀬: そこで、色々と勉強して複数店舗を作りました。4店舗に増やしたところで借金が億単位になっていました。当時の1億円ですから、よくそんな借金ができたなと今でも思います。そうなると、今度は従業員に辞められたら店が成り立たなくなります。莫大な借金も返せなくなりますので、結果として従業員に甘い社長になってしまいました。だから、彼らに何か言われても、「うんそうだね、それもあるね」という妥協の連続でした。
 本来、しっかりと方向性を示す社長が上にいて、初めて従業員も活きるのです。ところが、実質社長不在では、従業員が自分で方向性を示すことができるはずありません。そうこうするうちに業績が悪くなり、とうとう、顧問税理士から「あなたの会社はもう来月には資金が底をつきます」言われてしまいました。

尾崎: それはいつごろの話ですか?

一瀬: 私が50歳ぐらいの時でした。

尾崎: ペッパーランチのチェーン展開を始められるちょっと前ですから、20年前の話ですね。

一瀬: ええ。実は、その二年ほど前に女房が亡くなったんです。それで死亡保険金が3,000万円くらい入ってきたのかな。普通の親は、そのお金は子供の将来のために取っておこうと思いますよね。ところが、会社が赤字ですから、100万円引き出し、経理が「社長、会社にお金ないですから、何とかしてください。」と泣きついてくれば、また、100万円、200万円と渡すわけです。一回支払いが終わると、一ヶ月は楽になりますが、次の月も資金繰りの苦労が続きます。
 そして、とうとう最後の最後に何もなくなったところで、やっと目覚めたわけです。そうなることはずっと前から分かっていたんですよ。要するに私は経営者として甘かったんです。ところが、本当ににっちもさっちも行かなくなった時に、普段取らない行動を取ったんです。

尾崎: 「普段取らない行動」とは何ですか?

一瀬: 私は一晩かけてリストラ策を考えました。リストラといっても解雇するのではなく、従業員の給料を思い切って10%から15%カットする方法を選びました。それから銀行の支払いを伸ばしてもらうなど、ありとあらゆる方法を組み合わせると、4店舗で月430万~440万円支払いを減らせます。
 社員には事前に個別説明して、いよいよ皆を社長室に集めて、「みなさんの給料を10~15%カットします」と再建策を説明し始めたところ、途中でひとりの社員がパっと手を挙げ、「社長、それなら私たち全員が辞めます。辞めたらお店やって行けなくなりますが、良いですか?」と言い出したのです。
 私の人生で一番大きな決断をして、普段取らない行動を取ったのはこの後です。

尾崎: 事前に個別説明をしたのに、そこまで言って来る社員がいたんですね。

一瀬: ええ、そういう急先鋒の社員がいたんです。これに対して、私は「わかった。辞めたいやつは辞めろ。ドア開けて出て行け!」と一喝しました。

尾崎: それが「普段取らない行動」ですか。一瀬さんは社員を一喝するのは得意とお見受けしますが・・・。

一瀬: その頃、そうではなかったんです(笑)。社員の顔色ばかり窺っていた私から、普段言えないようなセリフが出たのです。  
 「この再建策を実行しなければ、いずれにせよ、来月全員でこの会社を辞めることになる。遅かれ早かれ辞めるのであれば、今辞めて良いよ。出て行ってくれ」―私がこう言った後、しばしの沈黙が流れましたが、誰も出て行かないんです。
 そこで私は続けました。「僕が悪かった。人は叱られて成長するものなのに、僕はそれをやらなかった。皆さんが悪いんじゃない。僕が悪いんだ。僕が勇気のない社長だったから、社長不在でリーダーがいない組織になってしまった。それではうまく行くわけがない」と。
 その後、「みんな、この計画を呑んでくれるか?」と聞いたら、皆、黙って頷いてくれました。それからの3ヶ月間、寝ないであらゆる手を打ちました。メニューも新しいものに変えました。それまでは、メニューを変えようとすると、「社長、そんなことやっても売れませんよ」と、まずネガティブな発想をする者が必ずいました。ところが、リーダーになる覚悟ができていたので、新メニューのポジティブな面を強調して、「とにかく俺の言うことを聞け」と説得しました。
 それからです、こんなに態度のでかい社長になれたのは。最近、講演では必ず、「人は叱られて大きくなります。叱ってくれない社長は誰も尊敬しないです」と話します。当時の自分は甘かったと思います。

尾崎: 社員に甘い顔をすることが一瀬さんにリーダーの覚悟がなかった証拠ということですが、「甘い」というのは具体的にどういうことですか?

一瀬: 「社員を叱らないことが楽だ」ということです。人は何か言われれば反論しますよね。特に、リーダーシップがとれてない社長には社員は反論しやすい。仕事の後、飲みに行って、ある従業員と半ば口論になりました。私も適当なところで帰れば良いのに、朝の4時まで捕まって、「まぁ、いいから、いいから」「そうは言ったって~」と延々と続いたわけです。
 それから社員と話すことに臆病になってしまいました。忘年会では、私は最初に挨拶して、1時間半くらいで退散するようになりました。宴会の最後は私が締めなければならないのに、従業員に絡まれたことがトラウマになってしまったのです。今では信じられないことですが、従業員が怖くてしょうがなかったのです。

尾崎: 一瀬さんは本来、そういうやさしい性格の人なのですね。社長は他人から何を言われても気にしない面が必要ですが、そういうことが辛かったのでしょう。

一瀬: 従業員に自分の気持ちをうまく伝えられない社長さんに対して、私は「このようにしなさい」と自信を持って言えます。5店舗から10店舗の規模になっても、そこから大きくなれない社長が世の中にいっぱいいます。どんなに良いアイディアがあっても、従業員の協力を得られなかったら、大きくなれません。そして、内部崩壊して途中で消滅してしまいます。それはリーダー不在だからですよ。
 私の場合、従業員との熾烈なやりとりがあったので、その後は経営の壁がありませんでした。店舗数を20、30、50と増やせば、その都度、壁がある。それらの壁を乗り越えることができるかは、組織の問題、人の問題だと思います。

 腕の良い職人さんが社長になると、部下の仕事の粗さや未熟さがとても気になるものです。一瀬さんが組織を大きくするうえで、そのことに悩んだと容易に想像できます。そういう職人さんが4店舗も構えるようになるというのは、殆どの人ができない成功と言えます。その一瀬さんが50歳のベテラン経営者になっても、従業員に本音でモノを言えなかったとは意外でした。ただ、シニアな年齢になっても人は成長するのだと思います。

従業員に「美しい仕返し」をするために…

尾崎: これを機会に一瀬さんのメンタリティも変わったんですね。

一瀬: ええ、変わりました。それからね、当時強烈に思っていた従業員への「美しい仕返し」がありました。「こいつら、いまに見ていろ。絶対に仕返ししてやる」と独り言をずっと言い続けてきました。「こいつら、いまにうちの会社が大きくなって給料もたっぷり取れて・・・」

尾崎: 「お前らお金持ちにしてやる」ですか?

一瀬: いやいやそこまで言わないんですけど、会社を辞められない環境を作るということです。従業員も40歳になって子供が大きくなれば、転職もしづらくなります。私はそこを狙っていたんです。

尾崎: まさに美しい仕返しですね。

一瀬: そうです。とうとう仕返しができたんです。「仕返し」は良くない言葉ですが、「彼等が絶対に辞めたいと言えない良い会社にすることが俺の仕返しなんだ」と、ずっと自分に言い聞かせて来ました。

尾崎: その後、経営の壁がなくなったとおっしゃいましたが、その会議に出席していた人の中から現経営陣が生まれたんですか?

一瀬: その時以来、会社に残って専務になった松本がいます。今の当社にとって一番の功労者は松本です。私が四面楚歌で従業員と対立した時、彼は私を支えて、従業員から守ってくれました。このことで私はとても勇気づけられたんです。

尾崎: 従業員は組織のトップになかなか強くモノを言えないものです。また、トップが下の者に厳し過ぎることも問題です。この点、ナンバー2が従業員に小言を言って、且つ従業員の悩みを聞いてくれると組織はうまく回りますね。

一瀬: そうですね。もし、ナンバー2の松本が従業員の側に立ったら、とんでもない会社になっていたでしょうね。ただ、そういう会社は社長に問題があり、社長が人間として正しいことをしていないのだと思います。たとえば、社長だけ儲かっているとか。

私が「皆の給料を下げたい」と言った時、松本も驚いていましたが、20%の給与削減を「いいですよ、社長」と受け容れてくれました。この一言は血判状のようなもので、これで上手く行くという確信が生まれました。
 松本はある企業の社長に紹介され、営業が嫌いなタイプでしたが、私と波長が合ったんです。大型店のオープンなどに期待できそうだったので、初めて料理の現場を知らないナンバー2を採用しました。いつも私の側に立ってやってくれましたが、時々喧嘩もしました。

尾崎: 経営危機の会議の話に戻りますけど、「辞めたければ勝手に辞めろ」と一瀬さんが一喝された後、本当に全員出て行ったこともありえたわけですよね?

一瀬: そしたらそこで閉めればいいじゃないかと思ったんです。ただ、勝算ありとも思っていました。

尾崎: どういうところで勝算ありだったんですか?

一瀬: だってこんな良い社長はいないですから。

尾崎: 当時、リーダーとしてご自分はいまひとつと言われましたが、普段から社員と人間的な付き合いをきちっとやられていたのでしょう?

一瀬: やっていたと思います。

尾崎: それがベースにあったから、社員が納得したのだと思います。

一瀬: それと、私が真面目ということが社員に理解されていました。当時からごまかしや不正が無かったんです。ただ、一回だけ税務署からごっそり追徴を食らったことがあります。この経験の後、「だったら、きちっとやろう」と改めて決意しました。親から「正しい道に進め」という教育を受けましたが、不適切な税金処理も昔はやってしまったわけです。税務署員に、「税務署が入って倒産した会社はありませんから。私たち来るたびに会社は良くなります」などと言われました。あながち、税務署の言ったことは外れていないです。

尾崎: 一瀬さんが自己分析されたように、経営に甘いところがあって赤字につながったわけですが、それを素直に社員に伝えたから、皆が頑張ってくれたんでしょうね。

 多店舗化後の経営危機をすんでのところで乗り切った一瀬さんですが、随所で彼の誠実な人柄が伝わって来ました。レストラン経営は成長よりも「店を守る」ことが大事だと思います。ところが、彼は50歳を超えて、資本市場で必要な「成長」に挑戦することになります。それが次回お話しする「ペッパーランチ」のFC構想です。


一瀬邦夫(いちのせくにお)/1942年、静岡市生まれ。赤坂旧「山王ホテル」でコック修行後、27歳で「キッチンくに」創業。51歳で「ペッパーランチ」のFC事業を始め、64歳の2006年、ペッパーフードサービスの東証マザーズ上場を果たす。

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